ノベリアス 私記『無想無念』

0:
 傷つくことが怖かった。皮膚の下に流れる血の音。皮膚の外を流れる血の色。命の証としての赤は、やがて酸素と結合し、黒く染まる。
 傷つきたくなかったから、傷つけた。剣を振るう間は、何も考えずにすむ。何も考えていない間は、自分が傷ついていることは忘れられる。そうしてできた体の傷は、痛みとなって私の心を侵食する。痛みが与えられている間は、痛みのことしか考えられない。そうやって、心に出来た傷の痛みを上塗りする。
 
  『無想無念』
 
1:
 はじめに見えたのは、赤く燃える鶏。否、見えたのは、炎の塊だ。
 ほとんど閉じたくらいの薄目を凝らして、その中心部になにかが嘶いている。それが「撃鉄」という名の鶏(とり)であることを知らなかったなら、太陽の欠片か何かだと勘違いしただろう。星見の塔、その頂点に文字通り君臨する存在。あまりに圧倒的な姿を背に、私はその場を後にした。
 
 「どうだった?」
 私のマスタが尋ねた。
 「何ですか、その答えづらい質問は。もっと具体的な質問にしてください、マスタ」
 「マスタって呼ぶのは構わないが、外ではオーナーと呼べと言っているだろう」
 「そうでした。でも、『マスタ』と呼べと仰ったのはマスタではないですか」
 「うるさい。他人には聞かれたくないんだ」
 「そんな、……」
 自分勝手な、という言葉は飲み込んだ。暫くは外でもマスタと呼んでやろう。
 「で、撃鉄を実際に見てどうだった? 何か分かったか? その、戦い方のコツとか」
 「そうでした」
 私は、かつての星見の塔トーナメント(TCG)を模した大会であるTCGWに参加する為、マスタに無理を言ってかつてのTCGの優勝者である撃鉄を見に来たのだった。
 「正直……何も分かりませんでした。【レベル】が違いすぎます」
 「そうだろうな。俺が初めて見た奴の試合、といっても決勝戦だったが、ルールブックを読んでいるうちに決着がついていたからな」
 「それって……」
 「いや、仕方なかったんだ。試合開始の合図とほぼ同時に、グレンデルヒの胸を嘴が貫いていた。ルールブックを読んでいなかったとしても、何が起こったかは分からなかっただろう」
 そうですか、と私はマスタから目を逸らした。私は何か大変な大会に出ようとしているのではなかろうか。
 「心配するな」
 マスタが呟く。
 「戦略は十分練ってやる。先ずは、目の前の仮面舞踏会<マスクス>で敗者復活から這い上がる準備でもしようじゃないか」
 「……そうですね」
 私に出来ることは、剣を振ることだけですからね。私はその為に、マスタに作られたのですから。頑張って、勝たないと。マスタの為に、私の為に。
 「……何難しい顔してるんだ? とりあえず、受付に水パネルを返して来い」
 そうでした。
 
1.5:
 受付で借りていた水パネルを返す。
 「水パネル、ありがとうございました」
 「あらあら、礼儀正しい子ね、どういたしまして」
 さっきと受付担当が変わっている。捕まったら話が長くなりs
 「そういえば、貴方みたいな可愛い子がこの前も来たのよ」
 ……捕まった。
 「あの子も撃鉄を見に来たみたいだったわ。剣を大事そうに抱えて。そういえば貴方も剣を持っているのね。剣を使う大会でも流行っているのかしら。貴方のオーナーも酷い人ね、こんな可愛い子に剣を持たせて戦わせるなんて。でも、貴方のオーナーは……うーん、何と言うかあまり存在感が無いわね。あの子の隣にいた男の人、あ、この前撃鉄を見に来た子ね、その子のオーナーなのかしらね、あの人はちょっと怖かったわ。無表情だったけど、きっと拷問とか好きよ、1000回くらいあの子を切りつけても平然としt」
 「し、失礼します」
 逃げ出してみた。知り合いでもない人の事をよくもまぁあそこまで言えるものだ、と悪い意味で感心しつつ。 
 彼女が来ていたことは、受付の名簿で確認している。前々回のTCGWの優勝者だったし、マスクス1回戦でも歴戦の剣師らしく上位で勝ちあがった。見落とすわけがない。
 彼女とも、これから幾度と無く剣を交えることになるだろう。
 
2:
 私の前で、マスタは唸っている。
 マスクス2回戦の登録が終わり、TCGWの私の能力値を考えているのだ。煉獄炎、とか呪術刀、とか呟いている。傍から見たら怪しい人だが、実際に怪しいので仕方ない。
 「無想無念を使うことは決まってるんだがなぁ……」
 マスタが独り言のように呟く。しかし、その言葉が私に向けられているのは明白である。
 「そんなに悩むなら、無想無念を抜けばいいじゃない」
 「それもそうだな……って、何を言わせるんだ」
 わざわざノリツッコミしてくれた。珍しい。
 「マスタだって、無想無念入れないほうが強いと思ってるんでしょう? 正直に言いなさいよ」
 「……まぁ、確かにそうだ。魔法メインの方が俺の性格上組みやすいことは分かっている。だがな、」
 「『無想無念はキャラの設定上削るわけにはいかない』んでしょう? そんなことなんて、普段は毛ほどにも気にしないくせに。何でそんなに無想無念を入れたがるの?」
 「俺にだって、譲れないものはあるんだ」
 一体何が、譲れないのだろうか。さっぱり分からない。
 でも、私にはどうすることもできない。私は、ゲームのルールに従って、マスタによって決められた能力値によって戦う剣師<キャラクター>なのだから。私がいなければマスタはゲームに参加できない。マスタがいなければ私はゲームに参加できない。結局、私は待つことしか出来ない。
 「せいぜい、頑張ることね。私の為に」
 「嗚呼、分かった。せいぜい、お前の為に頑張ろう」
 ちょっとは皮肉の一つも返してみなさいよ。言ったこっちが恥ずかしい。
 「……もう午前2時ね。そろそろ寝たら?」
 「そうだな、……もうちょっと練ってから寝よう」
 
 結局4時過ぎまで考えていたみたいだ。肉体を持たない私にはどうでもいいけれど、マスタは現実世界での生活を疎かにしないでほしい。これは心配ではない。現実世界でのマスタへの影響は、私への影響として如実に現れる。せいぜい、頑張って欲しい。
 
3:
 マスタは、まだ気付いていないみたいだけど、私の根底原理は無想無念にある。マスタの意思がどうだとか、そういったレベル以前に、私は無想無念を使わざるを得ないのだ。
 
 
 私は何処にも存在しない、けれど此処に存在する。存在とは何か。命とは何か。
 私には分からない。私の存在は、オーナーの存在と等しい。見るアングルが違うだけだ。「キャラ設定とは最も怖ろしい個人情報なのだ」なんて言葉は正に的確で、反論の余地などこれっぽちもありはしない。
 
 私は、マーガレットというゲームに参加する為に、オーナーが作った「キャラクター」で、それ以外の何者でもない。即ち、私という存在は、マーガレットが無ければ生み出されなかったし、つまりそれはマーガレットを生み出したポーン氏が居なければ生み出されなかったし、更にいえばTCGがなければ、niv氏がいなければ、 ……本題からずれた。私が言いたいことは、それではない。
 つまり、私は、いわばオーナーの分身として、ゲームに参加している。
 剣を振ったりはするが、それで実際に血が吹き出るでもなければ死ぬわけでもない。例えば、"それ"が死んだとしても、それは設定上死んだ訳であって、「キャラクター」としては存在している。果たしてそれは、死んだというのだろうか?
 
 私は、ゲームのルールに従って能力値をオーナーによって定められ、ゲームのルールに従って他のキャラクターと勝敗を決する。そもそも、勝敗を決するだけなら、能力値だけでもいい。そこに、私が、居るのならば、果たして私は設定の中に居ることになる。
 
 
 マスタがTCGW12のスキルセットに無念無想(これは、知ってのとおり無想無念の勘違いだったが)を発見した瞬間、私がTCGWに参加することは決定した。それが、単に私のマスクス第1回戦の絵のポーズの元ネタが、気符「無念無想の境地」だったから、といったチープな理由でも。
 そう、だから、マスタは無意識に、私に無想無念を積ませようとしているのだ。マスタは、まだそれに気付いていない。だから、「譲れない」なんていう訳の分からないことを言うのだ。
 「譲れない」んじゃない。マスタの意思がどうだとか、そういったレベル以前に、私は無想無念を使わざるを得ないのだ。
 
4:
 マスタは、どうやら無事に無想無念を積んだ私を完成させたようだった。
 私は、マスタの為に、TCGW12に参加する。
 そこに私の一切の想念は無い。
 プラン4の条件が成立したならば、私は高らかに叫ぶのだ。
 
 
 傷つくことは怖くない。皮膚の下に流れる血の音。皮膚の外を流れる血の色。命の証としての赤は、やがて私の躰を巡る。
 傷つくことも、傷つけることも、出来なかった。私が剣を振るう間、マスタは何を考えるのだろう。私は何も考えることはできず、ただマスタの傀儡として戦いに臨む。そうしてできた体の傷は、痛みとなって私の心を侵食する。痛みが与えられるならば、確かに其処に私は存在するのだろう。そうやって、心に出来た傷の痛みを命の証とする。
 
 「無想無念!」