マーガレット・ハンドレッド / 神科戯華『Dead End』

[Dead End]
 目を覚ます。はっきりしない意識から、徐々に覚醒する、脳への血流を感じ取りながら、洗面台へ向かい、蛇口を捻る。水を手で掬い、顔を洗う。冬の朝、極限まで冷えた水は、目を覚ますには十分すぎるほどの刺激だった。
 ……唐突に、あの日のことを思い出した。もう封印し尽くしたと思っていたけど、人間の脳というものはそう単純に出来ていない。何のきっかけもなく、何の予兆もなく、その光景はありありと目の前に展開される。
 彼女は思い出す。そして、掌に、深紅(あか)いナイフを創り出す。「王なる赤」。漂う鉄の匂いは、誰のもの?
 
[Dead End]
 「そう……負けちゃったのね。残念」
 「いや、うん。何か、予感みたいなものはあったけどね。まあその予感にしても、誰もが感じるものだと思うけどね」
 「ほらー、あんなこと言ってたから負けちゃったんだよー。『それでも、私を下す生徒はいるわ。その人と当たったら負け』だっけ? 格好付けちゃって、そういうのが”死亡フラグ”って言うのよ」
 「何よ、死亡フラグって……」
 「え、知らない? あー、戯華はゲームとかあんまりしないもんね。何故か上手いくせに」
 「……」
 「いっつも、どっか詰めが甘いのよね。戯華は」
 「……」
 「ちょっとー、何か言いなさいよー。あー、もしかして泣いてる?」
 「……いえ、泣いてないわ。安心して」
 「何を安心すれば良いのよ」
 「……そうね。私は”まだ”生きているわ」
 「……」
 「だから、安心しなさい。私は、修学旅行が終わったら、帰ってくるから。零歌。」
 「……うん! 家に帰るまでが修学旅行よ! なーんてね」
 「そうそう。……それじゃ。そろそろ切るわね」
 「うん。お疲れ様。」
 「……」
 「…」
 
[Dead End]
 戯華は猫を飼っている。名は「ブール」という。さっきまでそこにいたのに、一瞬でも目を離すと何処かへ消えてしまったり、また逆に、気配すらなかったのにいつの間にかそこにいたりする。いるのかいないのか、いつでも不思議な猫だった。
 戯華自身も、ブールをいつから飼い始めたのか、よく覚えていない。というより、「戯華がブールを飼っている」という表現も正しいのかどうかも怪しかった。ただ、適当にキャットフードを買ってきて皿に入れておくと何処からともなくやってきてそれを食べていたり、また戯華がなんとなくブールを抱きたいとか考えていると膝の上に乗ってきたりするので、戯華は、ブールを「飼っているのかいないのか」という命題に対しては特に答えが無くても良いと思っている。
 
 修学旅行が終わり、家に帰ってきた翌日。戯華はブールの名を呼んだ。大抵の場合、それでブールはやってきた。しかし、ブールは来なかった。そういうときもある、と、戯華は気にしなかった。修学旅行の間、餌やりを頼んでいた零歌に聞いてみたら、昨日まではブールの姿が見られたようだった。戯華は適当に買ってきたキャットフードを、皿にあけた。
 
 その翌日。皿の中身の容量は変化していなかった。戯華は、確実ではないがほぼ確信を持って悟った。皿の中身を捨て、新しくキャットフードを皿にあけた。ブールの名を呼んでみる。来ないと分かっていながら。
 
 さらにその翌日。戯華は、自分の予想が外れていた事を知る。皿の中身は半分程度減っており、皿の隣には、ブールとよく似た、しかしブールとは違う、子猫が眠っていた。戯華は、その猫に、ブールという名を付けた。
 
[Dead End]
 何もせずに、死んだ。客観視点の私から見た事実。
 
 《死》を手中に握り、敵にそのイデアを打つ。打ち込む。巡る星、巡る血、巡る命。時を幾重にも重ね、”その時”に存在する自分を無理矢理、”今”に存在させる。時計の針は六重に。手に握るナイフは六振りに。巡る時、巡る死。何度も妄想(えが)いた、戦闘シーン。
 シミュレーションでは完璧だった。
 だがそれは所詮シミュレーション。
 死の可能性は完全には払拭されず、巡る想いは、ただ、相手の手によって全てを否定される。
 そう。1でない勝率など、全く信用出来ない。
 私は死ぬ。
 
 扉を開けて、彼女を視認した瞬間。私は敗北を確信した。
 一瞬だけ、幽かに私の頭を霞めた、私の勝利の映像(ビジョン)は、何処までも妄想で。
 
 圧倒的。圧倒的な差だ。それは圧倒的な差だった。
 
 王に捧ぐ赤い絨毯《カーペット》は、ただ、王に踏みしめられるために。
 
[Dead End]
 掌に収まるほど小さな、ほおずきのような深紅のナイフ。死色の紅《デスクリムゾン》と人に呼ばれた、だが未だ誰も傷つけることのなかったそれは、ただ鈍く光る。
 まず、そのナイフでほんの少し小指の先を刺す。傷跡はほとんど点、その傷から血液が球状に滲み出てくる。その血を、唇に塗り紅とする。錆びた鉄の味がする。
 そうしてから、おもむろに、ナイフを、自分の左胸に打ち込む。
 1から0へ。生から死へ。真から偽へ。
 
 
 しかし、先程まで鉄も切れるほど鋭く尖っていたそれは、いとも容易く、赤い結晶となり、紅い粒となり、融けて消えた。
 
 結局、彼女の生成した深紅のナイフは誰も傷つけることはなかった。
 
 それが、本当に死のイデアを持ったデス剣であったのかは、もう誰も知る由が無い。
 
[Dead End]
 妄想の果て。無限の流れ。地獄の底。
 巡る巡る、彼女の永久の記憶。
 死によって塞き止められるべきだったそれは、留まることなく。
 
[True or False]
 真か偽か?
 神科戯華。