『紫色のクオリア』うえお久光

今まで読んだありとあらゆる作品の中で一番衝撃を受けた。
残念ながら僕が感じたクオリアをこの文章を読む人には伝えられないけど。


僕は、例えば「クオリア」や「哲学的ゾンビ」や、
それら以外の哲学的用語について、
哲学的な何か、あと科学とか』くらいでしか知らないけど、
僕には、どうやら作者は、
クオリア」という単語の意味を若干理解していない(或いは"捻じ曲げて"利用している)みたいに感じる。
それでも、この作品の価値は別のところにあるから問題ない。(と、思う。)



人間がロボットに見える目を持つゆかりの感覚。
そして実際に人間とロボット(機械)を同一存在として見做し、
同一存在として"存在させる"ゆかりの能力。
これは明らかにゆかりの「超能力」であり「魔法」である。
僕らは、その(不可思議な)力を(現実に)観察することはできない。
ならば、彼女は存在しないのか。
否。
確かに『紫色のクオリア』という作品の中に、彼女は存在する。


作品中、"汎用性のある"ガクは、ゆかりの世界を受け入れたが、
七美はその世界を受け入れられなかった。
即ちこれは、読者がゆかりを受け入れるか、受け入れられないかの対比に等しい。
ガクの受け入れた世界によって、ガクは新たな自身の"可能性"の力に目覚める。
そしてガクの"可能性世界"は、僕ら読者の"可能性世界"に等しい。
275ページから始まる、ガクとゆかりの会話は、
読者(作品外の世界)と登場人物(作品内の世界)の会話だ。
読者はあらゆる"解釈"を作品に与える。
読者は作品内のあらゆる登場人物に"なりきる"ことができる。
しかしそれでも、ゆかりの死(作品の結末)に、読者は干渉できない。
作品に、『あたし』は存在しない
登場人物が感じている「クオリア」を、読者は永遠に感じることはできない。
だから、最後に、物語が終わるときに、読者は目覚めなければならない。

 ――すべてはあたしの、長い長い、夢でした。
 でも、もう、目を覚まさなければいけません。
 おとぎ話にたとえれば、――お姫さま、なんて柄ではないけれど、キスされてしまいましたから。
 まどろむのは気持ちいいけれど、いつまでも、寝ているわけにはいきません――

うえお久光,『紫色のクオリア』,1/1,000,000,000のキス,302p.より

ここまで来ると、ゆかりが持つ力は、"作者の力"であることも理解できる。
登場人物に"力"を与え、
作品世界(登場人物だけでなく、生物無生物全て)に"魂"を与えるのは、
間違いなく"作者"だ。
物語を作るのは、作者であり、読者ではない。
けれども、同時に、
作品を読むのは、読者だ。
読者は物語には干渉できないが、しかし物語を鑑賞できるのは唯一読者だけ。
あらゆる『可能性』を『確定』させるのは、読者である


          • -

……さて。
とまあここまでよく分からない講釈と解釈を垂れ流してきましたが、
上に書いてあることは僕の感情の一部です。
読書感想文を書くつもりは毛頭無かったのですが、
とりあえず頭に思い浮かんだことを適当に書いていったらこんなことになりました。
実際に僕は本を読んで切るときにこんなことを思ったわけではないので、
悪しからず。
上に書いたことについて反論とかしても困りますよ。僕は知りませんからね。
「はいそうですか。では、それが貴方のクオリアですね」とか言って逃げるからね。

 「あたしの運命を変えられるのは――変えていいのは、あたしだけで、ガクちゃんに、そんな権利はないんだよ?」


うえお久光,『紫色のクオリア』,1/1,000,000,000のキス,284p.より